2024年9月7日土曜日

「無精の学」と「徒労の学」

「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは、最小の労費をもって最大の効果をあげる方法を研究する学問で Wissenschaft der Faulheit つまり無精の学ということになるときいている、お前はそういう学問をやっているのかといいだしたのです。

・・・(中略)・・・おそらくハイデルの『哲学者の道』の散歩に殺風景な経済学などをやっている私がついてきたので、ちょっとからかってみたくもなり、また自分の経済学に対する無知のテレ隠しだったのかも知れないが、それはともかく今だったら哲学は最大の労費をもって最小の効果をあげる方法を研究する学問 Wissenschaft der Erfolglosigkeit つまり徒労の学ということになるのかと、からかいかえすところですが、まだ若かったし、ようやく『資本論』を読んだばかりの私は、経済学が決してそういうものではないということを下手なドイツ語で大いに陳弁したのでした」。

宇野 弘蔵(著)『資本論の経済学』(岩波新書、1969年), pp. 4-6.

「経済学とは、経済学者がやっていることである」――“Economics is what economists do”(pdf)――なんていう言い分もあったりします。それに倣うと、「哲学とは、哲学者がやっていることである」ということになりますが、何だか面白みに欠ける気がします。「無精の学」に「徒労の学」を対比させる方がユーモアがある・・・ように感じるのは、僕が経済学に毒されてしまった――経済学を学んだがために性格がひねくれてしまった――せいでしょうか。

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