2023年1月31日火曜日

絶対的な権力は絶対的に腐敗する

「権力は腐敗しがちな傾向にあり、絶対的な権力は絶対的に(必ずや)腐敗する。偉人はほとんど常に悪人である」(“Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely. Great men are almost always bad men.”)。

ジョン・アクトン(アクトン卿)の言葉として有名ですが、クレイトン主教に宛てた手紙の中に出てくる言葉なんだそうです。

教皇だとか王様だとかの「偉人」は、その他の人たち(常人)とは違って、過ちを犯さない(悪事を働かない)と好意的に想定するのは間違いだ。むしろ、その逆の想定――権力の持ち主は、手にしている権力が大きければ大きいほど、過ちを犯しがち(悪事を働きがち)――に立つべきである。・・・っていう前振りがあって、冒頭に引用した言葉が続くらしいですね。

権力が腐敗しがちなのはどうしてなんでしょう? アクトン卿は、「地位が人を聖化するなんて考えほど異端的な見解はない」と述べていますが、その辺も関係しているのかもしれません。王様は王様であるがゆえに優れている。それゆえ、とにかく敬うべきだ・・・って周りがついつい考えちゃうってわけですね。周囲にイエスマンばかりが集まって、過ちを犯しても誰からも批判されなくなっちゃうわけですね。そのせいで傲慢になっちゃうってわけですね。どうやら「自律心」っていうのは稀少な代物みたいですね。

2023年1月30日月曜日

相関と因果の取り違え

こんな相関を考えてみよう。犯罪がとても多い都市には警官も多い傾向がある。さて、警官の数と犯罪の数の相関を実際の都市2つで見てみよう。デンバーとワシントンDCの人口はほぼ同じだ――一方、ワシントンにはデンバーの3倍もの警官がいて、殺人の件数も8倍だ。それでも、もっと情報がなければどっちがどっちを起こしているのかはわからない。慌て者ならこの数字を見てワシントンで殺人が多いのは警官が多いせいだと言い出すかもしれない。そういう無茶な考え方は昔からあって、だいたいは無茶な行動にたどり着く。こんな昔話もあるくらいだ。むかしむかし、あるところに王様がいました。あるとき王様は、国中で疫病が一番よく起きる地方にはお医者も一番たくさんいると聞きました。王様がどうしたかって? すぐさま医者をみんな撃ち殺せとお触れを出しましたとさ(スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『ヤバい経済学』, pp. 13)

1977年に発表された学術論文「刑務所建設の一時停止を求める立場を代表して」は、投獄率が高いとき犯罪発生率も高いことを指摘して、投獄率を下げない限り犯罪は減らないと結論づけている(運よく、看守たちが突然獄舎を開け放ち、犯罪が減るのを座って待ってるようなことにはならなかった。政治学者のジョン・J・ディユーリオ・Jr. が後日語っている。「犯罪学者の世界では、博士号でも持ってないと危険な犯罪者を投獄しておいたほうが犯罪は減るというのがわからないようだ」)。「一時停止」論を主張する人は相関と因果の違いを根本的にわかっていない。同じような話を考えてみればいい。ある町の市長が、自分たちの町のチームがワールドシリーズに勝つと市民は大喜びするのに気がついた。市長はこの相関関係に興味を持ったのだが、「一時停止」論文の著者と同じように、相関がどっちからどっちへ流れているのかはわからなかったようだ。そこで翌年、市長はワールドシリーズのお祝いを第一球が投げられる前に始めると宣言した――彼の混乱しきった脳内では、これで勝利は確実になった(上掲書、pp. 154-155)。

警官を増やしただけで犯罪が減るんだろうか? 答えはあたりまえみたいに思える――yesだ――けど、それを証明するのは簡単ではない。というのも、犯罪が増えるとみんな守ってくれと大騒ぎするので、だいたいは警察に回ってくる予算が増える。だから、警官と犯罪の相関をそのまま見てしまうと、警官が多いときには犯罪も多いという傾向が出る。もちろん、警官が犯罪を起こしているわけじゃない。ちょうど、一部の犯罪学者が言うような、犯罪者を出獄させれば犯罪が減るということにはならないのと同じだ(上掲書、pp. 158) 

二つの物事が相関しているからといって一方が他方の原因だとは限らない。相関は単に二つの物事――XとYと呼ぼう――には関係があると言っているだけで、関係の方向については何も言っていない。XがYを起こすのかもしれないし、YがXを起こすのかもしれない。もしかしてXとYが両方とも何か他の物事であるZに引き起こされているのかもしれない(上掲書、pp. 13)。

2023年1月29日日曜日

偉くなると、魂が堕ちる?

「高い場所にいると、魂が堕ちる」というのは、あながち的外れじゃないのかもしれません。

20年ほど前の話になるが、一人の経済学者が学者稼業に嫌気が差して、ベイグル売りに転身した。朝になると、ワシントン周辺にあるオフィス街を訪れて、方々の会社のカフェテリアにベイグルと代金入れを置いていく。午後になると、売れ残ったベイグルと代金入れを回収しに戻る。さすがは元経済学者と言うべきか、そのベイグル売りは、持ち去られた(食べられた)ベイグルの数と売上代金のデータを事細かに記録しており、そのおかげで人がどんな状況で不正直に振る舞うかを推測することが可能となったのだ。

ベイグル売りに転身した元経済学者の名は、フェルドマン。

フェルドマンは、データよりも自分の経験に基づいて、人の正直さについて他にも独自の結論を得ている。・・・(略)・・・さらに彼は、会社での地位が高い人のほうが低い人より支払いをごまかすことが多いと考えるようになった。そう思うようになったのは、フロア3つ――一番上が役員フロア、下2つが営業、サービス、管理に携わる従業員のフロア――に分かれた会社に何年も配達を続けてからのことだった(役員たちの特権意識がいきすぎてそういうことになったのかもとフェルドマンは考えている。・・・(略)・・・)。

スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『ヤバい経済学』(東洋経済新報社、2006年), pp. 61.

出世の階段(あるいは、はしご)を昇っていって「高い場所」――物理的な意味でも、ステータスの意味でも――に辿り着いた人たちは、特権意識がいきすぎて魂が堕ちてしまった(支払いをごまかすという不正に手を染めがちな)んじゃないかというわけですね。

「偉くなると、魂が堕ちる」ってまとめたいところですが、そうとは限らないかもしれません。

そもそもそういう連中はインチキしたからこそ役員になれたのかもってことだ(上掲書, pp. 61)。 

「魂が堕ちてるからこそ、偉くなれる」というわけですね。

「偉くなると、魂が堕ちる」のか、それとも「魂が堕ちてるからこそ、偉くなれる」のか。因果関係を証明するというのは、なかなか厄介な仕事みたいですね。

塩水+淡水=?

 でもそれ以来、マクロ経済学者たちは、二つの大きな派閥に分かれてしまった。「塩水派」経済学者(おもにアメリカ海岸部の大学にいる)は、不景気というものについて、おおむねケインズ派的な見方をしている。そして「淡水派」経済学者(主に内陸部の大学にいる)は、この見方がナンセンスだと考える。

 淡水派の経済学者は、基本的には、純粋自由放任(レッセフェール)主義者だ。あらゆるまともな経済分析は、人々が合理的で市場が機能するという前提から始まるというのが彼らの前提だ。この想定は、単なる不十分な需要によって経済が低迷するという可能性を、前提により排除してしまっている。

・・・(中略)・・・

 この研究が行われている頃、ぼくは大学院生で、それがどれほどエキサイティングに思えたか、よく覚えている――そして特にその数学的な厳密さが、多くの若い経済学者にとっていかに魅力的だったかも。でも、この「ルーカスプロジェクト」と広く呼ばれていたものは、すぐに脱線してしまった。

 何がおかしくなったのか? ミクロ的基礎を持ったマクロ経済学を作ろうとした経済学者たちは、やがてそれにはまりすぎてしまい、プロジェクトに救世主じみた狂信性を持ち込んで、他人の意見に耳を貸さなくなってしまったのだ。特に、まともに機能する代案もまだ提供できていなかったのに、勝ち誇ってケインズ経済学の死を宣言した。

・・・(中略)・・・

 さて、淡水派経済学者たちも、事態がすべて思い通りに運んだわけじゃない。一部の経済学者たちはルーカスプロジェクトの明らかな失敗を見て、ケインズ派のアイデアをもう一度見直して、化粧直しをした。「新ケインズ派」理論が、MIT、ハーバード、プリンストンなどの学校――そう、塩水近く――や、政策立案を行うFRBや国際通貨基金(IMF)などの機関におさまった。新ケインズ派たちは、完全市場や完全合理性という想定から逸脱しても平気で、おおむねケインズ的な不景気観に沿うだけの不完全性を追加した。そして塩水派の見方では、不景気と戦うのに能動的な政策をとるのは、相変わらず望ましいことだった。

ポール・クルーグマン(著)/山形 浩生(訳)『さっさと不況を終わらせろ』(早川書房、2012年), pp. 138-141.

マクロ経済学における二大派閥を「淡水派」/「塩水派」と名付けたのは、クルーグマンさん・・・ではなく、ロバート・ホールさんだそうですが――1976年に書かれたこちらの論文(pdf)で命名――、ホールさんのホームページによると、ネット上で「淡水派」/「塩水派」という表現を使うと、命名者であるホールさんに対して1回につき1ドルの使用料(あるいは、寄付金)を払う必要があるみたいです。なんてがめついんだ・・・と思うのは早計です。ホールさんが自分の懐に入れるわけではなく、経済学界の未来を担う大学院生を支援するための基金の財源にするらしいのです。マクロ経済学を専攻する大学院生らを修士課程1年目にMIT――「塩水派」の根城の一つ――で学ばせ、2年目にミネソタ大学――「淡水派」の根城の一つ――で学ばせるためのプロジェクトの財源にするというのです。言うなれば、(塩水と淡水が混在した)「汽水派」の若手を育成しようというわけですね。

おそらくクルーグマンさんはホールさんに対して100ドル近くの使用料を支払っていると思われますが、僕もそのうち1ドル払わなくちゃいけませんね。

(追記)ホールさんのホームページをよく読むと、「使用料を1ドル払うように」としか書かれていませんね。「淡水派」/「塩水派」という表現を使うたびに1ドル(1回につき1ドル)というわけじゃなく、もしかしたら1ドル払えば何回でも使っていいのかもしれません。クルーグマンさんが気軽に使っているのもそのため(1ドル払えば何回でも使えるため)なのかもしれません。

2023年1月22日日曜日

先延ばし

気付いたら年が明けて2023年になってしまいました。

「ブログを更新するのは明日でいいや」というのが続いて、遂に今日に至ってしまいました。先延ばしというやつですね。

「とりあえず、毎日投稿を目指したいと思います」という宣言はどこへやら。我ながら情けない限りです。

でも、アカロフという経済学者も友人のスティグリッツさんに荷物を送るのを長らく先延ばしした経験があるそう(pdf)です。ノーベル経済学賞受賞者ですら先延ばしの魔の手から逃れられないみたいですから、自分を責める必要はそこまでないのかもしれません。

「無精の学」と「徒労の学」

「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは...