2022年7月20日水曜日

高所恐怖症?

高いところがどうも苦手です。高所恐怖症とまでは言えないかもしれませんが、なんだか堕ちちゃいそうで怖いんです。と言っても、体じゃなくて、魂が堕ちちゃいそうで不安になるんですよね。

「いくらお祈りのためとはいっても、こういう高い場所にいるのはなんとなく危険な気がしますね」とブラウン神父。「高みというやつは、下からながめるものであって、そこから見おろすものじゃなかったんですね」

「落っこちやしないかという心配ですか?」とウィルフレッドが訊いた。

「からだが墜落しなくとも、魂が堕ちるかもしれないという意味ですよ」と相手の聖職者は言った。

・・・(中略)・・・

「わたしの知っていた一人の男は、最初はほかの者たちといっしょに祭壇の前で礼拝することから始めながら、やがて祈りの場所として鐘楼の片隅だとか塔のてっぺんとかいうような高い淋しい所を好くようになった。あるとき、世界が自分の足もとで車輪のようにまわっているように見えるそういう眼のくらむ場所で、その男の頭までがくるくる回りだし、自分は神であると思いこむところまで行ってしまった。こうして、善良な人間であったのに、その男は大きな罪を犯した」

ウィルフレッドの顔はそっぽを向いていたが、その骨ばった手はみるみる血の気を失って、石の欄干をきつく握りしめた。

「この世を裁き、罪人を打ち伏せることが自分に許されているとその男は考えたのです。そんな考えは、ほかの者といっしょに床に膝まずいていたならば、とうてい思いつかなかったでしょう。ところが、その男はすべての人が虫けらのようにうごめいているのを見てしまった。・・・(略)・・・」

G・K・チェスタトン(著)/中村 保男(訳)「神の鉄槌」(『ブラウン神父の童心』に収録, pp. 268-269) 

2022年7月19日火曜日

ブラウン神父

一時期、毎日のように、コナン・ドイルだとか、アガサ・クリスティだとかを読み漁っていたことがありました。推理小説にハマっていたわけですが、そのきっかけとなったのがG・K・チェスタトンのブラウン神父シリーズでした。従兄弟の家の本棚に『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫、1982年)があって、借りて読んだのです。面白かったので、いつでも読めるように、自分でも買いました。

つい先日、久しぶりに『ブラウン神父の童心』を読み返したのですが、ブラウン神父は謎を解くだけで、犯人(罪人)を警察に突き出したりしないってことに改めて気づかされました。犯人を捕まえようとしないのです。犯人が逃げても追いかけないのです。どうしてなのでしょう?

人間の「弱さ」を見抜いているからかもしれません。誰もが罪を犯す(罪人になる)可能性を秘めているからかもしれません。罪を犯しても、悔い改めさえすればそれでよし。悔い改めさえすれば、法の裁きは必ずしも必要じゃない・・・ってことなのかもしれません。

「でも、きみは犯人を知っているのだろう」と大佐。

「本名は知りません」と神父は眉毛ひとつ動かさずに言った――「だが、やつの重量ならおおよそ見当がつくし、やつの魂の悩みならいやというほど知っていますがね。やつがわたしを絞め殺そうとしたとき、やつの体力がどのくらいか測定できたし、やつが改悛したとき、やつの徳義心の程度は見当がつきましたよ」(「奇妙な足音」, pp. 98-99)

「返してもらいたいんだ、フランボウ――それから、こんな生活から足を洗ってもらいたいな。おまえさんには、まだ若さと名誉心とユーモアがある――が、こんな商売では、せっかくのそれも永続きせん。人間というものは、善良な生活なら一定の水準を保つことができるかもしれぬが、悪事の一定水準を保つなんてことはむりな相談なんだよ。悪の道は、もっぱらくだるいっぽうさ。しんせつな男が酒飲みになると、とたんに残酷になる。正直な男でも、人殺しをすれば、嘘つきになってしまう。・・・(略)・・・おまえさんのうしろには、森がいかにも自由な天地に見えていることだろう。フランボウ――おまえさんがさっと身をひるがえせば、猿のように森のなかに消えうせてしまうことができようさ。だが、おまえさんだって、いつかは灰色の老いぼれ猿になるときがあるんだよ、フランボウ。そのときおまえさんは、森の中にすわって、寒々とした心で死を待っている――樹も梢もまる裸になっていることだろうよ」

すべては依然しんと静まりかえっている――下にいる小柄な男が、眼に見えぬ長いひもで相手を樹上につなぎとめているかのようだ。小男は話をつづける――

「おまえさんのくだり坂はもうはじまっている。おまえさんはよく、卑劣なまねはいっさいしないと大見得をきっていたものだが、今夜は卑劣なことをやっている。・・・(略)・・・しかし、このままでいけば、一生のうちにはもっと卑劣なことをするようになる」 (「飛ぶ星」, pp. 129-131) 

「どうしてこれがみんなわかったんだ? あんたは悪魔なのか?」

「人間ですよ」 ブラウン神父はおごそかに答えた――「人間なればこそ、この心のうちにあらゆる悪魔をもっているのです。まあ、お聞きなさい」 (「神の鉄槌」, pp. 270)

「まあ、この新興宗教についてぼくが知っているのはそんなところです」とフランボウは無頓着に言った。「もちろん、どんな肉体の病いでも治せるという触れこみですがね」

「たった一つの魂の病いは治せるのかな?」とブラウン神父は真剣に好奇心をそそられて言った。

「そのたった一つの魂の病いとはなんです?」とフランボウは笑顔で問いかえす。

「自分がまったく健康だと考えることですよ」(「アポロの眼」, pp. 274)

「ポーリンの眼」と神父は自分の眼をいよいよ輝かせてくりかえした。「さあ、おつづけなさない、是が非でもおつづけなさい。悪魔がそそのかしたどんなに卑劣な罪も、懺悔をすれば軽くなる。さあ、なんとしても懺悔をなさい。わたしのあとをおつづけなさい。ポーリンの眼……」

「そこをどけ、悪魔め」とカロンは鎖につながれた巨人のようにもがいて怒号した。「いったいお前はなにものだ、おれのまわりに蜘蛛の巣をはりめぐらして、探偵のように覗いたり透かしたり。道をあけろ」

「抑えましょうか」とフランボウが出口のほうへすっとんで行きながら訊いた。カロンは早くもドアを大きくあけ放っていた。

「いいや、通しておやり」とブラウン神父は妙なため息とともに言った。宇宙の深みから湧き起ってくるかのような深いため息だった。「カロンをして通らしめよ、彼は神のものなれば」(「アポロの眼」, pp. 292-293)

2022年7月14日木曜日

過ぎたるは猶及ばざるが如し

中年層以上にとっての最適な睡眠時間は7時間らしいです。中年層よりも若い世代については調査の対象外とのことですが、脳が発達途上にある若者――僕もそのうちの一人です。中学生ですから――にとっての最適な睡眠時間は違ってくる(7時間じゃない)かもしれないとのことです。

「最適な睡眠時間が7時間」というのは、睡眠時間が7時間だと、睡眠が認知能力やメンタルヘルス(精神面での健康)に及ぼすプラスの効果が一番大きくなるという意味です。睡眠が認知能力やメンタルヘルスに及ぼすプラスの効果は、睡眠時間が7時間より短くても弱まりますし、長くても弱まるらしいです。寝不足も寝過ぎもよろしくないわけですね。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というわけですね。

2022年7月9日土曜日

暗殺が世界の歴史を変えたことはない

「暗殺が世界の歴史を変えたことはない」(“Assassination has never changed the history of the world”)というのは、イギリスの政治家であるベンジャミン・ディズレーリが語った言葉として知られていますが、脚本家の三谷幸喜氏が先日の安倍元総理襲撃事件との絡みでディズレーリのこの言葉を引用した上で――三谷氏は『暗殺で歴史は絶対に変わらない』と表現されています――、次のように述べてらっしゃいます

歴史ドラマの脚本を執筆する中で感じたこととして「歴史は1人の人間の思いで動くものではなく、みんなのいろんな思惑や歴史そのもののうねりがあって、時代は先に進んでいく。1人の人をあやめたことで何が変わるのかというと、多分何も変わらないことの方が多い。そう思うと、この暗殺という手段がどれだけばかげているかと改めて感じる」と神妙に語った。

歴史というのは色々な要因が絡み合って形作られていて、1人の人間の暗殺という「偶発事」によっては大勢に影響はないのかもしれません。

ただし、独裁者の暗殺に関しては、話は別のようです。独裁者が暗殺されると、その国がその後に民主主義に移行する可能性が高まるらしい(pdf)のです。暗殺によって「世界」の歴史が変わるかどうかはわかりませんが、「一国」(とりわけ、独裁国家)の歴史が変わる可能性はあるわけですね。

2022年7月8日金曜日

降水量と暗殺

降水量が少ないほど、国のトップが暗殺される可能性が高まるらしいです(「降水量が少ない→食糧難→軍が飢えて疲弊→軍による反乱→トップの暗殺」)。「国のトップ」といっても、ローマ皇帝に限定した話だそうですけどね。

それはそうと、21世紀の日本でも痛ましい事件が起きてしまいました。ペンに剣を・・・なんていうのは言語道断です。ペンにはペンを!

2022年7月7日木曜日

PCR検査

のどの痛みと息苦しさがしばらく続いていたので、近所の耳鼻咽喉科に行ってきました。

先生の診断によると、「のどかぜ」じゃないかとのことでした。処方してもらった薬を欠かさず飲んで、できるだけ早めに治していきたいと思います。

念のためということで(新型コロナに感染している可能性も無きにしも非ずということで)PCR検査もしました(初体験)。鼻の奥に棒を突っ込まれてグリグリされました。ものすごく痛かったです。もう二度と御免です(ちなみに、検査結果は陰性でした)。

2022年7月2日土曜日

自己欺瞞

何かで成功できたのは、自分の実力や努力のおかげだけじゃなくて、本人の力以外の何かに助けられたおかげかもしれないのに、なかなかそう思えないのは、自己欺瞞の一種なのかもしれません。謙虚になるのは、なかなかに難しそうですね。

私たちは自由である。したがって幸福である。むりにそう思いこもうとする。これ以上の自己欺瞞はない。すべてを宿命と思いこむことによって、無為の口実を求めることも自己欺瞞なら、すべてが自由であるという仮想のもとに動きながら、つねに宿命の限界内に落ちこみ、なお自由であると思いこむことも、やはり自己欺瞞なのである。つまり、二つの錯覚がある。人生は自分の意思ではどうにもならぬという諦めと、人生を自分の意思によってどうにでも切り盛りできるという楽観と。老年の自己欺瞞と青年の自己欺瞞と、あるいは失敗者の自己欺瞞と成功者の自己欺瞞と。ただそれだけの差でしかない。それが自己欺瞞である以上、私たちはそれによって、いずれのばあいにせよ、いちおう、ささやかな幸福を身につけることができる。だからこそ、自己欺瞞なのである。

・・・(中略)・・・

自分が失敗したり、落ち目になったり、いや、すでに失敗しそうだという予感においてさえも、私たちはそれが必然だったという口実を捜し求める。遺伝とか、過去における異常な経験とか、社会の欠陥とか、もし、ひとがその気になれば、現代はこれらの口実にこと欠かぬ。

・・・(中略)・・・

逆に成功者には口実は要らない。支配者は口実を嫌う。口実というのは、自己以外の権威を容認することであり、自己の外部に自己の作因を求めることだからだ。成功者は、自己の成功をつねに自己に帰したがる。が、おそらくそこでは、失敗者とは別の、しかし、同じ現実の必然性が作用しているにちがいない。それを、当人だけは多かれ少かれ、自己の内部の必然性によって、たとえば才能とか、力とか、計算とか、努力とか、そういうものによって、成功したのだと考える。したがって、失敗者のように現実それ自体の必然性を認めない。すくなくとも、現実の必然性を見ぬき、それを操りうる自己の力量を、かれは信じている。自己の必然性が現実の必然性を組み伏せたのだと信じている。じっさいはそうでないばあいでも、つまり、けがの功名のばあいでも、あたかもそれを計算して勝ち得たもののごとく、事後になって得意げに語るひとたちに私たちはよく出あう。すくなくとも、偶然の当りについて、自分がそれだけの値うちのない人間だとおもっているひとに私は出あったことがない。人は、人生が与えるどんな思いがけない過分の贈物でも、それを当然のことのように、大きな顔をして受けとる。

福田恆存(著)『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫、1960年), pp. 23-26.

2022年7月1日金曜日

便りが無いのは良い便り

“no news is good news”(便りが無いのは良い便り)なんて言いますが、日記に書くネタが無いのも良い便りなのかもしれません。これといって起伏のない平穏な一日を過ごせた証拠なのかもしれません。今日一日を無事に生き延びれただけでも感謝すべきなのかもしれません。

それにしても、今日も暑い一日でした。

(追記)便りが無いのは良い便り・・・とは必ずしも言えないそうです。となると、日記に書くネタが無いというのは、良い便りなんでしょうか? それとも・・・。

「日記に書くネタが無いのも良い便り」なんて自分に言い聞かせて、つまらない一日だったことを隠そうとしているだけなのかもしれません。一日を無為に過ごしてしまったことから目を逸らそうとしているだけなのかもしれません。そうやって自分を騙そうとしているのかもしれません。自己欺瞞ってやつですね。

「無精の学」と「徒労の学」

「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは...