一時期、毎日のように、コナン・ドイルだとか、アガサ・クリスティだとかを読み漁っていたことがありました。推理小説にハマっていたわけですが、そのきっかけとなったのがG・K・チェスタトンのブラウン神父シリーズでした。従兄弟の家の本棚に『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫、1982年)があって、借りて読んだのです。面白かったので、いつでも読めるように、自分でも買いました。
つい先日、久しぶりに『ブラウン神父の童心』を読み返したのですが、ブラウン神父は謎を解くだけで、犯人(罪人)を警察に突き出したりしないってことに改めて気づかされました。犯人を捕まえようとしないのです。犯人が逃げても追いかけないのです。どうしてなのでしょう?
人間の「弱さ」を見抜いているからかもしれません。誰もが罪を犯す(罪人になる)可能性を秘めているからかもしれません。罪を犯しても、悔い改めさえすればそれでよし。悔い改めさえすれば、法の裁きは必ずしも必要じゃない・・・ってことなのかもしれません。
「でも、きみは犯人を知っているのだろう」と大佐。
「本名は知りません」と神父は眉毛ひとつ動かさずに言った――「だが、やつの重量ならおおよそ見当がつくし、やつの魂の悩みならいやというほど知っていますがね。やつがわたしを絞め殺そうとしたとき、やつの体力がどのくらいか測定できたし、やつが改悛したとき、やつの徳義心の程度は見当がつきましたよ」(「奇妙な足音」, pp. 98-99)
「返してもらいたいんだ、フランボウ――それから、こんな生活から足を洗ってもらいたいな。おまえさんには、まだ若さと名誉心とユーモアがある――が、こんな商売では、せっかくのそれも永続きせん。人間というものは、善良な生活なら一定の水準を保つことができるかもしれぬが、悪事の一定水準を保つなんてことはむりな相談なんだよ。悪の道は、もっぱらくだるいっぽうさ。しんせつな男が酒飲みになると、とたんに残酷になる。正直な男でも、人殺しをすれば、嘘つきになってしまう。・・・(略)・・・おまえさんのうしろには、森がいかにも自由な天地に見えていることだろう。フランボウ――おまえさんがさっと身をひるがえせば、猿のように森のなかに消えうせてしまうことができようさ。だが、おまえさんだって、いつかは灰色の老いぼれ猿になるときがあるんだよ、フランボウ。そのときおまえさんは、森の中にすわって、寒々とした心で死を待っている――樹も梢もまる裸になっていることだろうよ」
すべては依然しんと静まりかえっている――下にいる小柄な男が、眼に見えぬ長いひもで相手を樹上につなぎとめているかのようだ。小男は話をつづける――
「おまえさんのくだり坂はもうはじまっている。おまえさんはよく、卑劣なまねはいっさいしないと大見得をきっていたものだが、今夜は卑劣なことをやっている。・・・(略)・・・しかし、このままでいけば、一生のうちにはもっと卑劣なことをするようになる」 (「飛ぶ星」, pp. 129-131)
「どうしてこれがみんなわかったんだ? あんたは悪魔なのか?」
「人間ですよ」 ブラウン神父はおごそかに答えた――「人間なればこそ、この心のうちにあらゆる悪魔をもっているのです。まあ、お聞きなさい」 (「神の鉄槌」, pp. 270)
「まあ、この新興宗教についてぼくが知っているのはそんなところです」とフランボウは無頓着に言った。「もちろん、どんな肉体の病いでも治せるという触れこみですがね」
「たった一つの魂の病いは治せるのかな?」とブラウン神父は真剣に好奇心をそそられて言った。
「そのたった一つの魂の病いとはなんです?」とフランボウは笑顔で問いかえす。
「自分がまったく健康だと考えることですよ」(「アポロの眼」, pp. 274)
「ポーリンの眼」と神父は自分の眼をいよいよ輝かせてくりかえした。「さあ、おつづけなさない、是が非でもおつづけなさい。悪魔がそそのかしたどんなに卑劣な罪も、懺悔をすれば軽くなる。さあ、なんとしても懺悔をなさい。わたしのあとをおつづけなさい。ポーリンの眼……」
「そこをどけ、悪魔め」とカロンは鎖につながれた巨人のようにもがいて怒号した。「いったいお前はなにものだ、おれのまわりに蜘蛛の巣をはりめぐらして、探偵のように覗いたり透かしたり。道をあけろ」
「抑えましょうか」とフランボウが出口のほうへすっとんで行きながら訊いた。カロンは早くもドアを大きくあけ放っていた。
「いいや、通しておやり」とブラウン神父は妙なため息とともに言った。宇宙の深みから湧き起ってくるかのような深いため息だった。「カロンをして通らしめよ、彼は神のものなれば」(「アポロの眼」, pp. 292-293)