2022年7月2日土曜日

自己欺瞞

何かで成功できたのは、自分の実力や努力のおかげだけじゃなくて、本人の力以外の何かに助けられたおかげかもしれないのに、なかなかそう思えないのは、自己欺瞞の一種なのかもしれません。謙虚になるのは、なかなかに難しそうですね。

私たちは自由である。したがって幸福である。むりにそう思いこもうとする。これ以上の自己欺瞞はない。すべてを宿命と思いこむことによって、無為の口実を求めることも自己欺瞞なら、すべてが自由であるという仮想のもとに動きながら、つねに宿命の限界内に落ちこみ、なお自由であると思いこむことも、やはり自己欺瞞なのである。つまり、二つの錯覚がある。人生は自分の意思ではどうにもならぬという諦めと、人生を自分の意思によってどうにでも切り盛りできるという楽観と。老年の自己欺瞞と青年の自己欺瞞と、あるいは失敗者の自己欺瞞と成功者の自己欺瞞と。ただそれだけの差でしかない。それが自己欺瞞である以上、私たちはそれによって、いずれのばあいにせよ、いちおう、ささやかな幸福を身につけることができる。だからこそ、自己欺瞞なのである。

・・・(中略)・・・

自分が失敗したり、落ち目になったり、いや、すでに失敗しそうだという予感においてさえも、私たちはそれが必然だったという口実を捜し求める。遺伝とか、過去における異常な経験とか、社会の欠陥とか、もし、ひとがその気になれば、現代はこれらの口実にこと欠かぬ。

・・・(中略)・・・

逆に成功者には口実は要らない。支配者は口実を嫌う。口実というのは、自己以外の権威を容認することであり、自己の外部に自己の作因を求めることだからだ。成功者は、自己の成功をつねに自己に帰したがる。が、おそらくそこでは、失敗者とは別の、しかし、同じ現実の必然性が作用しているにちがいない。それを、当人だけは多かれ少かれ、自己の内部の必然性によって、たとえば才能とか、力とか、計算とか、努力とか、そういうものによって、成功したのだと考える。したがって、失敗者のように現実それ自体の必然性を認めない。すくなくとも、現実の必然性を見ぬき、それを操りうる自己の力量を、かれは信じている。自己の必然性が現実の必然性を組み伏せたのだと信じている。じっさいはそうでないばあいでも、つまり、けがの功名のばあいでも、あたかもそれを計算して勝ち得たもののごとく、事後になって得意げに語るひとたちに私たちはよく出あう。すくなくとも、偶然の当りについて、自分がそれだけの値うちのない人間だとおもっているひとに私は出あったことがない。人は、人生が与えるどんな思いがけない過分の贈物でも、それを当然のことのように、大きな顔をして受けとる。

福田恆存(著)『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫、1960年), pp. 23-26.

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