2023年2月5日日曜日

「典型」に目を向ける意味

 予想もつかないはずの人間の行動を、冷たい数字で表現された可能性に落とし込むのに不安を感じる人もいるかもしれない。自分は「典型的」な人間ですなんて言いたい人がいるだろうか? たとえば、この惑星に住む男女をみんな足し合わせると、平均では、おとなの人間はおっぱい1つと金玉1個を持っている。でも、それにぴったり合った人間なんてどれだけいるだろう? あなたの愛する人が酔っ払い運転の事故に巻き込まれて亡くなったとする。酔っ払って歩くほうが危ないって聞いてなにか慰めになるだろうか? あなたがインドの若い花嫁だとする。夫にぶちのめされてるとして、ケーブルテレビは典型的なインドの花嫁に力を与えていると聞いて励まされるだろうか?

 そんな異論は正しいしもっともだ。でも、どんな法則にも例外があるにせよ、法則を知っておいて損はないだろう。人が数え切れないぐらいいろんな点で非典型的である複雑な世界でも、基本を見つけることには大きな価値がある。それに、平均的に起きることを知っておくといい出発点になる。そうすることで、ぼくたちは、考えごとをするときのクセにとらわれないようになる。日々の判断や法律や営みを考えるとき、現実よりも例外や変形に目が行ってしまいがちなぼくたちのクセと手を切れるのだ。

スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『超ヤバい経済学』(東洋経済新報社、2010年), pp. 17-18.

「典型」に目を向けることには、別の意味もあるかもしれません。

わたくしは、本章で都市国家ないし都市国家体制――この体制はわれわれが「商人経済」の「第一局面」と認めたものなのだが――の経済理論の概要を述べてみることにする。それはいわゆる「モデル」であって、その点では諸経済制度の働きを説明するために経済学者によって用いられているモデル(19世紀の金本位制に関する教科書的なモデルがその判りやすい一例である)と異なるところはない。つまり、そのようなモデルを用いるとき、われわれはそれが個々の歴史的事象の中において実際に起こっていること、ないし起こったことを叙述しているとは考えないわけである。それは「代表的な」場合であって、個別的な事柄はそれぞれの理由のために、それからは乖離していると考えられねばならない。しかし、モデルからの乖離が見出されると、モデルによってわれわれは「何故」という疑問を発するように仕向けられる。もしよいモデルであるならば、「何故」という疑問は(常にではないにしても)興味ある問いとなろう。

J. R. ヒックス(著)/新保 博・渡辺 文夫(訳)『経済史の理論』(講談社学術文庫、1995年), pp. 77-78.

「捨て石」としての典型(pdf)というわけですね(こちらも参照)。 

0 件のコメント:

コメントを投稿

「無精の学」と「徒労の学」

「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは...