トービン教授に博士論文の指導をしていただいたのは大変な幸せでしたが、印象的であったことを述べます。
第一に、博士論文のテーマ〈資本移動〉を述べてその見通しを述べた後、「では文献を調べて見ます」といったとたんにさえぎられました。「先行研究を調べすぎてはいけない。君の発想が消されてしまう。自分の頭で考えなさい。」というのです。自分で考えるどこかで壁にぶつかるので、そのとき先人がどう苦労しているかが分かるというのです。
浜田宏一 「大学の国際化はなぜ必要か?」(東京大学ホームカミングデイ, 2011年10月29日)
自分の頭で考えてどうにかこうにかかたちにしたのに、先行研究を調べてみたら先を越されているのがわかった。すべてが水の泡だ・・・とは限らないかもしれません。
だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。その理由は次のとおりである。第一に、その場合にのみ真理は我々の思想の全体系に繰り入れられて不可欠な有機的一部となり、この体系と完全に固く結合し、整然と論理的に理解される。第二に、その真理はそのそなえる色彩、色調、特徴からして、いずれも我々自身の考え方から生まれたことを示している。第三に、その真理はちょうどそれを強く要求している時に現われたので、精神の中に確乎(かっこ)たる位置を占め、さらに消滅することはない。
・・・(中略)・・・
つまり自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。
ショウペンハウエル(著)/斎藤 忍随(訳)『読書について――他二篇』(岩波文庫、1960年), pp. 9-10.
自分なりに苦心してやっとのことで手に入れた考えというのは、自分だけのものであり、いつまでも自分だけのものです。たとえその考えが目先の利益を生まなくても――例えば、博論として受け入れてもらえなかったり、学術誌に受理してもらえなくても――、一生の相棒に出会えたと思って感謝しようじゃありませんか!
・・・というのは、悠長に過ぎるでしょうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿