2023年2月24日金曜日

匿名の効能?

匿名で意見を述べることに異を唱える声は、古くからあるようです。例えば、19世紀にドイツで活躍した哲学者のショウペンハウエルは、次のように述べています。

そこで、この不正直な空気を一掃するために何よりも重要なのは、無頼漢的文筆業界があげてよりどころにする楯(たて)、すなわち匿名(とくめい)という方法を廃止することであろう。・・・(略)・・・自分の発言を自分の名前で主張できない者が、ただ匿名の方法によるだけであらゆる責任からのがれたり、それどころか出版業者から酒手(さかて)をかせぐために悪書を読者に奨(すす)めたりする低劣俗悪な者が、この有効な方法でその恥ずべき行為を隠したりする・・・(略)・・・。また匿名的方法の効能といえば、当の批評家が朦朧(もうろう)たる頭脳の所有者で、無能、無意味な人間であることをおおい隠すことだけの場合が多い。この匿名という物陰に身をひそめることが我が身保全の道であると考えるようになれば、青年たちは信じがたいほど破廉恥(はれんち)な精神のとりこになり、いかなる文筆的悪事にもひるまないことになる。

・・・(中略)・・・

すでにルソーは『新エロイーズ』の序文で、「名誉を重んずる人間はすべて、自分の文章の下にはっきりと署名する。」と述べており、・・・(略)・・・リーマーの『ゲーテのことども』序文29ページの次の言葉はきわめて正当である。「面と向かって率直に発言する相手は実は正直穏健な人物で、このような人間であれば我々も理解しあい、和解しあうことができる。これに反して婉曲(えんきょく)な発言に終始する相手は臆病な卑劣漢で、自分の判断を自分のものと認めるだけの勇気に乏しく、自分の意見にはただの一度も重大な関心を示さず、人目を避けて安全無事に憤懣(ふんまん)をもらし、心ひそかに喜ぶだけの人間にすぎない。」・・・(略)・・・民衆に向かって熱弁をふるおうとしたり、あるいはまた聴衆の前で演説を試みようとしたりする覆面の男を、我々はいったい許すであろうか。あまつさえ、壇上で他人を攻撃し、非難をあびせたうえで、この覆面の男が熱狂のあまり後を追う聴衆の足音を感じながら、足取りも軽く昂然(こうぜん)と退場する光景に、我々は我慢できるであろうか。

ショウペンハウエル(著)/斎藤 忍随(訳)『読書について――他二篇』(岩波文庫、1960年), pp. 46-48. 

怒り心頭なショウペンハウエル先生ですが、場合によっては匿名もありかもしれません。 

私は、大学人が自分の専門とする能力の範囲を超えて他の問題について書いたり話したりする場合に、なぜ免責権を要求したり、それを受けるに足る資格があると考えるのか理解に苦しむ。もし能力の及ぶ限界がはっきり示されうるものであるとすれば、一般的企業者がその能力の及ぶ領域外にまで出て事業を行ったときに受けるのと同様の損益を、この企業者的教授も受けるべきだといえよう。そうした状態に近付く最善の方法は、大学の学者たちが自分の専門以外の著作を公にする場合には匿名にすることだと思う。こうしたやり方は二つの目的に役立つ。匿名ということはその著者の専門家としての身分に付帯する権威をその著作から剥ぎ取り、著者の専門上の能力の及ぶ範囲外の著作にはなんの権威も与えられなくするだろう。さらに、著者の所属機関が混乱した時流に巻き込まれないですむだろう。こういうとユートピア的に聞こえるかも知れないが、それはなんとイギリスの一流誌が19世紀の前半に実際にやっていたことであった。それらの雑誌でも最大級の『エディンバラ・レビュー』誌は、1802年から1912年までこの匿名制を続けていたのである。

ジョージ・J・スティグラー(著)/上原 一男(訳)『現代経済学の回想――アメリカ・アカデミズムの盛衰』(日本経済新聞社、1990年), pp. 206.

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