2023年11月8日水曜日

見えないものへの気配の感覚

これまでぼんやりとしか見えていなかったものの輪郭をくっきりさせる手助けをしてくれるのが「理論」なのかもしれません。そういう意味で理論というのは「メガネ」(あるいは、「コンタクトレンズ」)みたいなものと言えるでしょうが、そのメガネには「色」がついているかもしれません。色がついているという意味で、もののを姿を歪んで見せているのかもしれません。メガネは一つしかないわけではなく、それぞれに違う色がついているメガネがたくさんあるのかもしれません。一つのメガネをかけたおかげでものの輪郭がくっきり見えるようになったからといって、そのメガネだけをありがたがるのは軽率なのかもしれません。 

「本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものヘの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。」

丸山 真男(著)『日本の思想』(岩波新書、1961年), pp. 90.


鶴見 ・・・(略)・・・『自己中心的な視座』という言葉があります。ものを見るときに、どうしても人間は自分から見る。だけど、見えないものがどこにあるかは、気配で感じることができる。気配の自覚がある人は、成熟したすぐれた人だと思うし、その気配がまったくわからない人は、ものを考える人としてあまりすぐれていないと思うんです。

 歴史家の場合もそうだと思います。自分の見えないものについての感覚。見えにくいけど、何かそこにあるんじゃないかという感覚です。 

・・・(中略) ・・・

津田(左右吉)はマルクス主義者じゃないんだけど、自分がつくっている視座について、何が自分に見えないかの気配の感覚を持っていたと思うんです。だけど、転向した状態から、戦後にもとのマルクス主義者に戻ってきた人たちは、気配の感覚を失っていた。戦争中に自分が別の立場をとってきたのを忘れて、そのことを隠してしゃべっているんだから、これはどうにもしょうがない。

 ところが、そういうことを、史学は、問題にならないと思っている。科学はそういうものじゃないと思っている。だけど、科学にもそういうことが繰り込まれているんです。科学としての歴史といった場合に、視座の問題は入らないと思ってるのは、科学についてのとらえ方が浅いんです。 」

網野 善彦・鶴見 俊輔(著)『歴史の話:日本史を問いなおす』(朝日文庫、2018年), pp.17-19.

2023年2月27日月曜日

国民のための経済政策

『国民のための経済政策』という古い本(訳本)を何気なく読んでいたら、次のような記述が目に留まりました。

 ケネディ政府は財政金融の管理手段強化を提案した。1962年1月、大統領はアンチ・リセッションのための連邦政府の政策手段を再増強すべく次の三つの措置を提案した。(1)大統領は個人所得税率の均等引下げ(5%までの)を一時的に行ないうる手続き、(2)失業がふえるとき公共資本支出を随時拡張すべき計画、(3)大量失業期間中における失業手当期限の自動的延長を含む失業保険の恒常的改善、以上である。 
ジェームズ・トービン(著)/間野 英雄・海老沢 道進・小林 桂吉(訳)『国民のための経済政策』(東洋経済新報社、1967年), pp. 12. 

著者のジェームズ・トービンさんは、いわゆるケインジアンの大物の一人として有名ですが、1961年から1962年まで大統領経済諮問委員会(CEA)のメンバーを務めていて、ケネディ大統領に経済政策の助言を行う立場にありました。上の引用文中で触れられている「三つの措置」については、CEAが1962年1月に議会に提出した「大統領経済報告」(pdf)で詳しく説明されていますが(pp. 17-21)、当時は定式的伸縮制度(formula flexibility)っていう呼び名で通用していたみたいです。

 景気循環対策として最も強力な手段は、いうまでもなく財政政策であります。景気の状態に応じて政府財政の支出と収入を調節し、その差額つまり財政の赤字(または黒字)の乗数効果を通じて有効需要水準をコントロールすることができます。このような効果を中心に考えたときの財政政策を「補整的財政政策」あるいは単に「フィスカル・ポリシー」(compensatory fiscal policy あるいは fiscal policy)と呼びます。

 財政のフィスカル・ポリシーとしての機能は

・・・(中略)・・・

(3)いわゆる定式的伸縮制度(formula flexibility)

の三つの段階に区別することができます。

・・・(中略)・・・

既存の計画を繰上げて実施するとか、失業保険金や生活保護費などを増大するとか以外には、景気の状態に応じて財政支出を機動的に、しかもむだ使いにならないように、増加することはそれほど簡単ではありません。

 そこで積極的なフィルカル・ポリシーの手段として考え出されたのが、いわゆるフォーミュラー・フレクシビリティーという方法です。

 これは景気の上昇に応じてあらかじめ定められた一定の公式(formula)にしたがって、税率や社会保障的支出を変更する権限を政府に与えておき、たとえば不況のときに失業率が何%を超えたときには個人所得税の免税点を引上げるとか最低税率をあるパーセンテージだけ引下げるとかいうやり方です。このようにして、GNPの変化に応じて、あらかじめ定められた公式(フォーミュラー)にしたがって機動的に財政赤字(または黒字)を作り出すわけです。

館 龍一郎・小宮 隆太郎(著)『経済政策の理論』(勁草書房、1964年), pp. 43-49.

財政政策は、機動性に欠けるという難点を抱えています。政府支出を増やす(あるいは減らす)にしろ減税する(あるいは増税する)にしろ、議会の承認を得る必要があります。景気が悪化したからといって、政府の一方的な判断ですぐに支出(歳出)を増やしたり減税したりすることはできないのです。そこで考え出されたのが「定式的伸縮制度」です。議会の承認を得る手続きを短縮化する(あるいは、議会の承認を得るという手続きを飛び越える)ことによって、財政政策の機動性を高めようというのです。具体的には、例えば失業率が一定の値(閾値)を上回ったら、大統領(政府)の指示で一時的な減税に踏み切られたり公共事業が前倒しされたり、失業保険の給付期間が自動的に延長されたりする(あるいは、失業保険の給付額が自動的に増やされたりする)のです。

「どこかで似たような話を聞いた覚えがあるなあ」と記憶を辿っていたら、思い出しました。ブランシャールさん&サマーズさんが言うところの「準自動安定化装置」(semiautomatic stabilizer)そのものじゃないですか。世紀が変わって、呼び名も(「定式的伸縮制度」から「準自動安定化装置」へと)変わったみたいですね。

(追記)ちなみに、トービンさんが触れている「三つの措置」は、提案どまりで終わったみたいです。議会が反対して、制度化されるに至らなかったのです。議会としては、予算編成の権限の一部を奪われてしまうという警戒心があったのかもしれませんね。それに加えて、当時のアメリカでは、「ニュー・ディールやフェア・ディール同様、その後のニュー・フロンティアは、『アンチ・ビジネス』政権が『自由企業体制』を『計画経済』にとって代えようとするというやかましい警戒心」が広まっていて、ケネディ政権に対して「アメリカの経済体制の大変革を目論んでいるのではないかという疑念」(『国民のための経済政策』, pp. 5)が抱かれていたらしいですから、理解を得るのは難しかったのかもしれませんね。

2023年2月24日金曜日

トービンとショウペンハウエル

トービン教授に博士論文の指導をしていただいたのは大変な幸せでしたが、印象的であったことを述べます。

第一に、博士論文のテーマ〈資本移動〉を述べてその見通しを述べた後、「では文献を調べて見ます」といったとたんにさえぎられました。「先行研究を調べすぎてはいけない。君の発想が消されてしまう。自分の頭で考えなさい。」というのです。自分で考えるどこかで壁にぶつかるので、そのとき先人がどう苦労しているかが分かるというのです。

浜田宏一 「大学の国際化はなぜ必要か?」(東京大学ホームカミングデイ, 2011年10月29日)  

自分の頭で考えてどうにかこうにかかたちにしたのに、先行研究を調べてみたら先を越されているのがわかった。すべてが水の泡だ・・・とは限らないかもしれません。

だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。その理由は次のとおりである。第一に、その場合にのみ真理は我々の思想の全体系に繰り入れられて不可欠な有機的一部となり、この体系と完全に固く結合し、整然と論理的に理解される。第二に、その真理はそのそなえる色彩、色調、特徴からして、いずれも我々自身の考え方から生まれたことを示している。第三に、その真理はちょうどそれを強く要求している時に現われたので、精神の中に確乎(かっこ)たる位置を占め、さらに消滅することはない。

・・・(中略)・・・

つまり自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。

ショウペンハウエル(著)/斎藤 忍随(訳)『読書について――他二篇』(岩波文庫、1960年), pp. 9-10.

自分なりに苦心してやっとのことで手に入れた考えというのは、自分だけのものであり、いつまでも自分だけのものです。たとえその考えが目先の利益を生まなくても――例えば、博論として受け入れてもらえなかったり、学術誌に受理してもらえなくても――、一生の相棒に出会えたと思って感謝しようじゃありませんか!

・・・というのは、悠長に過ぎるでしょうか?

匿名の効能?

匿名で意見を述べることに異を唱える声は、古くからあるようです。例えば、19世紀にドイツで活躍した哲学者のショウペンハウエルは、次のように述べています。

そこで、この不正直な空気を一掃するために何よりも重要なのは、無頼漢的文筆業界があげてよりどころにする楯(たて)、すなわち匿名(とくめい)という方法を廃止することであろう。・・・(略)・・・自分の発言を自分の名前で主張できない者が、ただ匿名の方法によるだけであらゆる責任からのがれたり、それどころか出版業者から酒手(さかて)をかせぐために悪書を読者に奨(すす)めたりする低劣俗悪な者が、この有効な方法でその恥ずべき行為を隠したりする・・・(略)・・・。また匿名的方法の効能といえば、当の批評家が朦朧(もうろう)たる頭脳の所有者で、無能、無意味な人間であることをおおい隠すことだけの場合が多い。この匿名という物陰に身をひそめることが我が身保全の道であると考えるようになれば、青年たちは信じがたいほど破廉恥(はれんち)な精神のとりこになり、いかなる文筆的悪事にもひるまないことになる。

・・・(中略)・・・

すでにルソーは『新エロイーズ』の序文で、「名誉を重んずる人間はすべて、自分の文章の下にはっきりと署名する。」と述べており、・・・(略)・・・リーマーの『ゲーテのことども』序文29ページの次の言葉はきわめて正当である。「面と向かって率直に発言する相手は実は正直穏健な人物で、このような人間であれば我々も理解しあい、和解しあうことができる。これに反して婉曲(えんきょく)な発言に終始する相手は臆病な卑劣漢で、自分の判断を自分のものと認めるだけの勇気に乏しく、自分の意見にはただの一度も重大な関心を示さず、人目を避けて安全無事に憤懣(ふんまん)をもらし、心ひそかに喜ぶだけの人間にすぎない。」・・・(略)・・・民衆に向かって熱弁をふるおうとしたり、あるいはまた聴衆の前で演説を試みようとしたりする覆面の男を、我々はいったい許すであろうか。あまつさえ、壇上で他人を攻撃し、非難をあびせたうえで、この覆面の男が熱狂のあまり後を追う聴衆の足音を感じながら、足取りも軽く昂然(こうぜん)と退場する光景に、我々は我慢できるであろうか。

ショウペンハウエル(著)/斎藤 忍随(訳)『読書について――他二篇』(岩波文庫、1960年), pp. 46-48. 

怒り心頭なショウペンハウエル先生ですが、場合によっては匿名もありかもしれません。 

私は、大学人が自分の専門とする能力の範囲を超えて他の問題について書いたり話したりする場合に、なぜ免責権を要求したり、それを受けるに足る資格があると考えるのか理解に苦しむ。もし能力の及ぶ限界がはっきり示されうるものであるとすれば、一般的企業者がその能力の及ぶ領域外にまで出て事業を行ったときに受けるのと同様の損益を、この企業者的教授も受けるべきだといえよう。そうした状態に近付く最善の方法は、大学の学者たちが自分の専門以外の著作を公にする場合には匿名にすることだと思う。こうしたやり方は二つの目的に役立つ。匿名ということはその著者の専門家としての身分に付帯する権威をその著作から剥ぎ取り、著者の専門上の能力の及ぶ範囲外の著作にはなんの権威も与えられなくするだろう。さらに、著者の所属機関が混乱した時流に巻き込まれないですむだろう。こういうとユートピア的に聞こえるかも知れないが、それはなんとイギリスの一流誌が19世紀の前半に実際にやっていたことであった。それらの雑誌でも最大級の『エディンバラ・レビュー』誌は、1802年から1912年までこの匿名制を続けていたのである。

ジョージ・J・スティグラー(著)/上原 一男(訳)『現代経済学の回想――アメリカ・アカデミズムの盛衰』(日本経済新聞社、1990年), pp. 206.

2023年2月13日月曜日

本を書く理由

森嶋通夫先生と言えば、20世紀を代表する数理経済学者の一人です。残念ながら2004年7月に逝去なさっていますが、同じく20世紀を代表する数理経済学者の一人である根岸隆先生が森嶋先生の追悼論文――“Michio Morishima and history: an obituary”――をお書きになっていて(ネットで全文が読めます)、その中で次のようなエピソードを紹介なさっています。森嶋先生は、自身の研究成果を学術論文にするよりも本のかたちで出版するのを通例にしていたそうですが、その理由は「現今の学術誌では、極めてテクニカルな内容が求められていて、深みのあるテーマ(アイデア)を扱うのは奨励されていない。テーマは狭くてもテクニカルな内容の論文の方が受理される可能性が間違いなく高い」とお考えになっていたかららしいです。 

そう言えば、タイラー・コーエンさんも同じようなことを語っていましたね(pdf;pp. 53)。学術誌では、既存の分野に対する「ちょっとした付け足し」を行う論文が受理されがちで、大論争を巻き起こしたり新しい分野を生むきっかけになるような「大きなテーマ(アイデア)」を論じにくくなっている。自分としてはどちらかというと「大きなテーマ」を扱う方に興味があるので、学術論文ではなく本を書くのに注力するようにしている・・・ってことらしいです。

なぜ最悪なものが最高の地位を占めるか

ハイエクさんによると、全体主義(集産主義)体制下では「最悪なものが最高の地位を占める」傾向にあるとのことです。すなわち、 「悪いヤツほど出世する」というのです。

現存の全体主義体制の最も悪い特徴と思われるものは、偶然の副産物ではなくて、全体主義が晩(おそ)かれ早かれ、確かに齎(もた)らす現象であると信ずべき強い理由がある。経済生活を計画化し始める民主主義的政治家が、独裁権を振りまわすか、その計画を破棄するかのいずれを選ぶかということに、すぐに直面するのと同じように、全体主義的独裁者はすぐに普通の道徳律を無視するか、それに失敗するかのいずれかを選ばなくてはならぬ。このような理由からして、全体主義の方向に進んでいる社会においては、不道徳なものや、無鉄砲なものがよりよく成功しがちなのである(F・A・ハイエク(著)/一谷 藤一郎(訳)『隷従への道――全体主義と自由――』(東京創元社、1979年再版), pp. 179)。

われわれの標準からして善良と思われる人々が、全体主義的機構の指導的地位に立とうと熱望するようなことは殆(ほと)んどなく、寧(むし)ろ思い止まらせたいものが多いのであるが、冷酷な者や不道徳な者には特殊の機会がある。その仕事だけをとってみれば、悪いことであることは何びとも疑い得ないが、或る高い目的に役立たせるために、それをなすことが必要であり、他の仕事と同じような熟練と能率をもって遂行せられることを要する仕事がある。それ自身悪いものであり、まだ伝統的な道徳に影響されているすべての人々が実行することを潔(いさぎよ)しとしない行為に対する要求があるから、その悪いことを容易になし得るものは、昇進し、権力をもつに至るのである。残酷と脅迫、慎重な詐欺とスパイを実行することが必要である。・・・(略)・・・著名なアメリカの一経済学者〔フランク・ナイト;引用者注〕が集産主義国家の指導者たちの任務を同じように簡単に列挙して、「彼らは欲すると否とに拘(かか)わらず、これらのことをなさなくてはならぬ。そして権力をもっている人々がそれをもったり、用いたりすることを好まない個人であるというような可能性は、奴隷の働く大農園において非常にやさしい心の持ち主が、鞭打つ主人の仕事を引き受ける可能性とほぼ同じように少いのである」と、結論していることは余りにも当然のことである(上掲書, pp. 198)。

ハイエクさんによると、社会または国家――全体――が個人よりも上位に立ち、全体の目的(理想)を達成することが何よりも優先される全体主義体制下では、「目的が手段を正当化するという原理」(pp. 193)が最高の規則となって、すべての道徳が否定されるに至るとのことです。目的を達成するためとあらば、どんな手も厭(いと)わない。脅迫、詐欺、スパイ。どんなに残酷で汚い手であっても、目的の達成につながるなら正当化される・・・というわけですね。全体主義体制下では、残酷で汚い仕事に心理的な抵抗を感じない(残酷で汚い仕事を難なくこなせる)悪漢こそが「偉くなれる」(権力を手にすることができる)ってわけですね。

「魂が堕ちてるからこそ、偉くなれる」説に一票みたいです。

2023年2月11日土曜日

権力は人を変える?

権力を手にすると、他人に厳しく自分に甘くなるだけでなく、嘘をつくのがうまくなる(嘘をついてもそのことが態度に現れにくくなる)らしいです。それだけじゃありません。独善的にもなるらしいです。権力を手にすると、「思考」/「感情」/「行動」のそれぞれの側面によからぬ影響が及ぶらしいのです。

アクトン卿が生きていたら、「ほら、言った通りだろ」って得意げに語るかもしれませんね(ただし、権力を手にして「堕落する」かどうかは人による面もあるらしいので、アクトン卿が全面的に正しいわけじゃなさそうです)。

2023年2月10日金曜日

チェスタトンのフェンス

人名を冠した用語のことを英語で「エポニム」というらしいです。例えば、「チェスタトンのフェンス」「オヴァートンの窓」なんかがそうですね。ちなみに、「スティグラーの法則」によると――「スティグラーの法則」も「エポニム」の一つですね――、「科学的発見に第一発見者の名前が付くことはない」らしいです。「エポニム」には(元祖の名前が冠されるとは限らないという意味で)恣意的な面があるというわけですが、「太陽の下に新しきものなし」ってことなのかもしれませんね。

経済学の分野でも「エポニム」はたくさんあって、例えば、・・・といきたいところですが、『An Eponymous Dictionary of Economics: A Guide to Laws and Theorems Named after Economists』(Julio Segura&Carlos Rodríguez Braun 編集)を手に取るに如(し)くはないでしょう。

(追記)ちなみに、「チェスタトンのフェンス」の「チェスタトン」は、あのチェスタトンのことです。その意味するところを警句のかたちで表現すると、「フェンスがそこに建てられた理由を突き止めるまでは、フェンスを撤去するなかれ」ってことになるらしいです。「変化によって失うものは確実だが、変化によって得られるものは不確実である」(pdf)というマイケル・オークショットさんの言に通ずるところがある――保守主義のすすめ?――かもしれません。

「オヴァートンの窓」というのは、言うなれば社会通念みたいなものです。社会通念から逸脱し過ぎた考えは、政治家に相手にされずに政策として結実する見込みがないってわけですね。そう言えば、ミルトン・フリードマンさんが「『オヴァートンの窓』なんて知るか!!」と息巻いていましたね。

・・・(略)・・・しかし上述の事例からもわかるとおり、経済学者は政治的可能性を予測するのは下手である。そのためもあって、わたくしは政治的可能性つまり提案が早急に容易に採用されるかどうかについては考慮をはらわないようになった(むろん別の意味の政治的可能性には注意しなければならない。すなわち、どのような措置でもひとたび実施されれば、所与の政治体制の下でいかなる効果をあらわすかという意味である)。わたくしは経済学の専門家だが、政治は素人である。専門家としての経済学上の判断が、素人の政治的判断に迷わされるのは、理にかなっており公衆の利益に合致するといえようか。 
ミルトン・フリードマン(著)/新開 陽一(訳)『インフレーションとドル危機』, pp. 3-4.

2023年2月5日日曜日

「典型」に目を向ける意味

 予想もつかないはずの人間の行動を、冷たい数字で表現された可能性に落とし込むのに不安を感じる人もいるかもしれない。自分は「典型的」な人間ですなんて言いたい人がいるだろうか? たとえば、この惑星に住む男女をみんな足し合わせると、平均では、おとなの人間はおっぱい1つと金玉1個を持っている。でも、それにぴったり合った人間なんてどれだけいるだろう? あなたの愛する人が酔っ払い運転の事故に巻き込まれて亡くなったとする。酔っ払って歩くほうが危ないって聞いてなにか慰めになるだろうか? あなたがインドの若い花嫁だとする。夫にぶちのめされてるとして、ケーブルテレビは典型的なインドの花嫁に力を与えていると聞いて励まされるだろうか?

 そんな異論は正しいしもっともだ。でも、どんな法則にも例外があるにせよ、法則を知っておいて損はないだろう。人が数え切れないぐらいいろんな点で非典型的である複雑な世界でも、基本を見つけることには大きな価値がある。それに、平均的に起きることを知っておくといい出発点になる。そうすることで、ぼくたちは、考えごとをするときのクセにとらわれないようになる。日々の判断や法律や営みを考えるとき、現実よりも例外や変形に目が行ってしまいがちなぼくたちのクセと手を切れるのだ。

スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『超ヤバい経済学』(東洋経済新報社、2010年), pp. 17-18.

「典型」に目を向けることには、別の意味もあるかもしれません。

わたくしは、本章で都市国家ないし都市国家体制――この体制はわれわれが「商人経済」の「第一局面」と認めたものなのだが――の経済理論の概要を述べてみることにする。それはいわゆる「モデル」であって、その点では諸経済制度の働きを説明するために経済学者によって用いられているモデル(19世紀の金本位制に関する教科書的なモデルがその判りやすい一例である)と異なるところはない。つまり、そのようなモデルを用いるとき、われわれはそれが個々の歴史的事象の中において実際に起こっていること、ないし起こったことを叙述しているとは考えないわけである。それは「代表的な」場合であって、個別的な事柄はそれぞれの理由のために、それからは乖離していると考えられねばならない。しかし、モデルからの乖離が見出されると、モデルによってわれわれは「何故」という疑問を発するように仕向けられる。もしよいモデルであるならば、「何故」という疑問は(常にではないにしても)興味ある問いとなろう。

J. R. ヒックス(著)/新保 博・渡辺 文夫(訳)『経済史の理論』(講談社学術文庫、1995年), pp. 77-78.

「捨て石」としての典型(pdf)というわけですね(こちらも参照)。 

2023年1月31日火曜日

絶対的な権力は絶対的に腐敗する

「権力は腐敗しがちな傾向にあり、絶対的な権力は絶対的に(必ずや)腐敗する。偉人はほとんど常に悪人である」(“Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely. Great men are almost always bad men.”)。

ジョン・アクトン(アクトン卿)の言葉として有名ですが、クレイトン主教に宛てた手紙の中に出てくる言葉なんだそうです。

教皇だとか王様だとかの「偉人」は、その他の人たち(常人)とは違って、過ちを犯さない(悪事を働かない)と好意的に想定するのは間違いだ。むしろ、その逆の想定――権力の持ち主は、手にしている権力が大きければ大きいほど、過ちを犯しがち(悪事を働きがち)――に立つべきである。・・・っていう前振りがあって、冒頭に引用した言葉が続くらしいですね。

権力が腐敗しがちなのはどうしてなんでしょう? アクトン卿は、「地位が人を聖化するなんて考えほど異端的な見解はない」と述べていますが、その辺も関係しているのかもしれません。王様は王様であるがゆえに優れている。それゆえ、とにかく敬うべきだ・・・って周りがついつい考えちゃうってわけですね。周囲にイエスマンばかりが集まって、過ちを犯しても誰からも批判されなくなっちゃうわけですね。そのせいで傲慢になっちゃうってわけですね。どうやら「自律心」っていうのは稀少な代物みたいですね。

2023年1月30日月曜日

相関と因果の取り違え

こんな相関を考えてみよう。犯罪がとても多い都市には警官も多い傾向がある。さて、警官の数と犯罪の数の相関を実際の都市2つで見てみよう。デンバーとワシントンDCの人口はほぼ同じだ――一方、ワシントンにはデンバーの3倍もの警官がいて、殺人の件数も8倍だ。それでも、もっと情報がなければどっちがどっちを起こしているのかはわからない。慌て者ならこの数字を見てワシントンで殺人が多いのは警官が多いせいだと言い出すかもしれない。そういう無茶な考え方は昔からあって、だいたいは無茶な行動にたどり着く。こんな昔話もあるくらいだ。むかしむかし、あるところに王様がいました。あるとき王様は、国中で疫病が一番よく起きる地方にはお医者も一番たくさんいると聞きました。王様がどうしたかって? すぐさま医者をみんな撃ち殺せとお触れを出しましたとさ(スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『ヤバい経済学』, pp. 13)

1977年に発表された学術論文「刑務所建設の一時停止を求める立場を代表して」は、投獄率が高いとき犯罪発生率も高いことを指摘して、投獄率を下げない限り犯罪は減らないと結論づけている(運よく、看守たちが突然獄舎を開け放ち、犯罪が減るのを座って待ってるようなことにはならなかった。政治学者のジョン・J・ディユーリオ・Jr. が後日語っている。「犯罪学者の世界では、博士号でも持ってないと危険な犯罪者を投獄しておいたほうが犯罪は減るというのがわからないようだ」)。「一時停止」論を主張する人は相関と因果の違いを根本的にわかっていない。同じような話を考えてみればいい。ある町の市長が、自分たちの町のチームがワールドシリーズに勝つと市民は大喜びするのに気がついた。市長はこの相関関係に興味を持ったのだが、「一時停止」論文の著者と同じように、相関がどっちからどっちへ流れているのかはわからなかったようだ。そこで翌年、市長はワールドシリーズのお祝いを第一球が投げられる前に始めると宣言した――彼の混乱しきった脳内では、これで勝利は確実になった(上掲書、pp. 154-155)。

警官を増やしただけで犯罪が減るんだろうか? 答えはあたりまえみたいに思える――yesだ――けど、それを証明するのは簡単ではない。というのも、犯罪が増えるとみんな守ってくれと大騒ぎするので、だいたいは警察に回ってくる予算が増える。だから、警官と犯罪の相関をそのまま見てしまうと、警官が多いときには犯罪も多いという傾向が出る。もちろん、警官が犯罪を起こしているわけじゃない。ちょうど、一部の犯罪学者が言うような、犯罪者を出獄させれば犯罪が減るということにはならないのと同じだ(上掲書、pp. 158) 

二つの物事が相関しているからといって一方が他方の原因だとは限らない。相関は単に二つの物事――XとYと呼ぼう――には関係があると言っているだけで、関係の方向については何も言っていない。XがYを起こすのかもしれないし、YがXを起こすのかもしれない。もしかしてXとYが両方とも何か他の物事であるZに引き起こされているのかもしれない(上掲書、pp. 13)。

2023年1月29日日曜日

偉くなると、魂が堕ちる?

「高い場所にいると、魂が堕ちる」というのは、あながち的外れじゃないのかもしれません。

20年ほど前の話になるが、一人の経済学者が学者稼業に嫌気が差して、ベイグル売りに転身した。朝になると、ワシントン周辺にあるオフィス街を訪れて、方々の会社のカフェテリアにベイグルと代金入れを置いていく。午後になると、売れ残ったベイグルと代金入れを回収しに戻る。さすがは元経済学者と言うべきか、そのベイグル売りは、持ち去られた(食べられた)ベイグルの数と売上代金のデータを事細かに記録しており、そのおかげで人がどんな状況で不正直に振る舞うかを推測することが可能となったのだ。

ベイグル売りに転身した元経済学者の名は、フェルドマン。

フェルドマンは、データよりも自分の経験に基づいて、人の正直さについて他にも独自の結論を得ている。・・・(略)・・・さらに彼は、会社での地位が高い人のほうが低い人より支払いをごまかすことが多いと考えるようになった。そう思うようになったのは、フロア3つ――一番上が役員フロア、下2つが営業、サービス、管理に携わる従業員のフロア――に分かれた会社に何年も配達を続けてからのことだった(役員たちの特権意識がいきすぎてそういうことになったのかもとフェルドマンは考えている。・・・(略)・・・)。

スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・D・ダブナー(著)/望月 衛(訳)『ヤバい経済学』(東洋経済新報社、2006年), pp. 61.

出世の階段(あるいは、はしご)を昇っていって「高い場所」――物理的な意味でも、ステータスの意味でも――に辿り着いた人たちは、特権意識がいきすぎて魂が堕ちてしまった(支払いをごまかすという不正に手を染めがちな)んじゃないかというわけですね。

「偉くなると、魂が堕ちる」ってまとめたいところですが、そうとは限らないかもしれません。

そもそもそういう連中はインチキしたからこそ役員になれたのかもってことだ(上掲書, pp. 61)。 

「魂が堕ちてるからこそ、偉くなれる」というわけですね。

「偉くなると、魂が堕ちる」のか、それとも「魂が堕ちてるからこそ、偉くなれる」のか。因果関係を証明するというのは、なかなか厄介な仕事みたいですね。

塩水+淡水=?

 でもそれ以来、マクロ経済学者たちは、二つの大きな派閥に分かれてしまった。「塩水派」経済学者(おもにアメリカ海岸部の大学にいる)は、不景気というものについて、おおむねケインズ派的な見方をしている。そして「淡水派」経済学者(主に内陸部の大学にいる)は、この見方がナンセンスだと考える。

 淡水派の経済学者は、基本的には、純粋自由放任(レッセフェール)主義者だ。あらゆるまともな経済分析は、人々が合理的で市場が機能するという前提から始まるというのが彼らの前提だ。この想定は、単なる不十分な需要によって経済が低迷するという可能性を、前提により排除してしまっている。

・・・(中略)・・・

 この研究が行われている頃、ぼくは大学院生で、それがどれほどエキサイティングに思えたか、よく覚えている――そして特にその数学的な厳密さが、多くの若い経済学者にとっていかに魅力的だったかも。でも、この「ルーカスプロジェクト」と広く呼ばれていたものは、すぐに脱線してしまった。

 何がおかしくなったのか? ミクロ的基礎を持ったマクロ経済学を作ろうとした経済学者たちは、やがてそれにはまりすぎてしまい、プロジェクトに救世主じみた狂信性を持ち込んで、他人の意見に耳を貸さなくなってしまったのだ。特に、まともに機能する代案もまだ提供できていなかったのに、勝ち誇ってケインズ経済学の死を宣言した。

・・・(中略)・・・

 さて、淡水派経済学者たちも、事態がすべて思い通りに運んだわけじゃない。一部の経済学者たちはルーカスプロジェクトの明らかな失敗を見て、ケインズ派のアイデアをもう一度見直して、化粧直しをした。「新ケインズ派」理論が、MIT、ハーバード、プリンストンなどの学校――そう、塩水近く――や、政策立案を行うFRBや国際通貨基金(IMF)などの機関におさまった。新ケインズ派たちは、完全市場や完全合理性という想定から逸脱しても平気で、おおむねケインズ的な不景気観に沿うだけの不完全性を追加した。そして塩水派の見方では、不景気と戦うのに能動的な政策をとるのは、相変わらず望ましいことだった。

ポール・クルーグマン(著)/山形 浩生(訳)『さっさと不況を終わらせろ』(早川書房、2012年), pp. 138-141.

マクロ経済学における二大派閥を「淡水派」/「塩水派」と名付けたのは、クルーグマンさん・・・ではなく、ロバート・ホールさんだそうですが――1976年に書かれたこちらの論文(pdf)で命名――、ホールさんのホームページによると、ネット上で「淡水派」/「塩水派」という表現を使うと、命名者であるホールさんに対して1回につき1ドルの使用料(あるいは、寄付金)を払う必要があるみたいです。なんてがめついんだ・・・と思うのは早計です。ホールさんが自分の懐に入れるわけではなく、経済学界の未来を担う大学院生を支援するための基金の財源にするらしいのです。マクロ経済学を専攻する大学院生らを修士課程1年目にMIT――「塩水派」の根城の一つ――で学ばせ、2年目にミネソタ大学――「淡水派」の根城の一つ――で学ばせるためのプロジェクトの財源にするというのです。言うなれば、(塩水と淡水が混在した)「汽水派」の若手を育成しようというわけですね。

おそらくクルーグマンさんはホールさんに対して100ドル近くの使用料を支払っていると思われますが、僕もそのうち1ドル払わなくちゃいけませんね。

(追記)ホールさんのホームページをよく読むと、「使用料を1ドル払うように」としか書かれていませんね。「淡水派」/「塩水派」という表現を使うたびに1ドル(1回につき1ドル)というわけじゃなく、もしかしたら1ドル払えば何回でも使っていいのかもしれません。クルーグマンさんが気軽に使っているのもそのため(1ドル払えば何回でも使えるため)なのかもしれません。

2023年1月22日日曜日

先延ばし

気付いたら年が明けて2023年になってしまいました。

「ブログを更新するのは明日でいいや」というのが続いて、遂に今日に至ってしまいました。先延ばしというやつですね。

「とりあえず、毎日投稿を目指したいと思います」という宣言はどこへやら。我ながら情けない限りです。

でも、アカロフという経済学者も友人のスティグリッツさんに荷物を送るのを長らく先延ばしした経験があるそう(pdf)です。ノーベル経済学賞受賞者ですら先延ばしの魔の手から逃れられないみたいですから、自分を責める必要はそこまでないのかもしれません。

「無精の学」と「徒労の学」

「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは...