熱はありませんが、のどが痛んで体が少しだるいです。夏風邪というやつかもしれません。
ジェニファー・アッカーマン(著)/鍛原多惠子(訳)『かぜの科学:もっとも身近な病の生態』(早川書房、2014年)でも読みながら、静養したいと思います。
熱はありませんが、のどが痛んで体が少しだるいです。夏風邪というやつかもしれません。
ジェニファー・アッカーマン(著)/鍛原多惠子(訳)『かぜの科学:もっとも身近な病の生態』(早川書房、2014年)でも読みながら、静養したいと思います。
霊感(ないしは、着想)の源泉は、宗教かもしれませんし、偶然かもしれませんし、未来人かもしれません。何かを閃(ひらめ)くにしろ、何かで成功するにしろ、実力や努力のおかげだけじゃないのかもしれないわけですね。本人の力以外の何かに助けられているのかもしれないわけですね。謙虚にいきたいものですね。
「わが社の時間旅行サービスは、特殊な性格のものだ。“ミューズ” という名称はそこから出た。この意味がわかるかね?」
「えーと」 スレードは面くらったが、せいいっぱい答えた。「待ってください。ミューズというのは、架空の存在で、人間の知的活動を――」
「人間に霊感をさずけるんだよ」 マンヴィル氏はせっかちに口をはさんだ。「スレード、きみは――はっきりいおう――きみは創造的な人間じゃない。だからこそ、退屈した気分、みたされない気分になる。きみは絵を描くかね? 作曲するかね? 宇宙船の船体や、ローン・チェアーの廃物を溶接して、鉄の彫刻をこさえたりするかね? いや、しない。きみはなにもしない。まったくの受け身だ。そうだろう?」
スレードはうなずいた。「図星ですよ、マンヴィルさん」
・・・(中略)・・・
「いいかね、スレード。われわれはきみの力になれる。だが、まず自分の努力が必要だ。創造的な人間でない以上、きみが望める最高の目標は――ここでわが社がきみの力になれるんだが――創造的な人間に霊感をさずけることだ。わかるかね?」
ややあって、スレードはいった。「なるほどね。わかります、マンヴィルさん」
「そうとも」 マンヴィルはうなずいた。「さて、きみが霊感をさずけるのは、モーツァルトやベートーヴェンのような大音楽家でもいいし、アルバート・アインシュタインのような大科学者でもいいし、サー・ジェイコブ・エプスタインのような彫刻家でもいい――おおぜいの作家や、音楽家や、詩人のうちのだれでもいいんだ。たとえば、地中海を旅行中のサー・エドワード・ギボンに会って、さりげなく話しかけ、こんなことをいう・・・・フム、このあたり一帯の古代文明の遺跡をごらんなさい。ローマのような強力な帝国がどうして衰亡してしまったのでしょう? 没落と荒廃・・・・分裂につぐ分裂・・・・」
「そうなのか」 スレードは熱っぽい口調でいった。「なるほどね、マンヴィルさん。わかりました。ギボンの前で “衰亡” という言葉を何度もくりかえせば、ぼくのおかげで彼はあの偉大なローマの歴史、『ローマ帝国衰亡史』のアイデアをつかむ。つまり――」 自分が身ぶるいしているのが感じられた。「ぼくがお手伝いしたことになる」
「“お手伝い”?」 マンヴィルはいった。「スレード、その言葉は適当じゃないな。きみがいなければ、そうした著作は存在しなかったわけだ。スレード、きみがサー・エドワードのミューズになることもできるんだよ」
P・K・ディック(著)/浅倉久志(訳)「ぶざまなオルフェウス」(『模造記憶』に収録, pp. 117-119)
科学が宗教にインスピレーション(着想)を与える・・・というのとはちょっと違いますが、科学が宗教性を帯びるってことはあるかもしれません。高度に発達した科学は、時に神秘的に映ったりしますからね。
「・・・(略)・・・わたしはかれらを操ってたがいに牽制させた。それぞれをかわるがわる援助してやった。かれらに科学、貿易、教育、科学的医療を提供してやった。わたしはターミナスを軍事的に魅力のある存在というよりはむしろ繫栄する世界として、かれらにとってより価値あるものにしたのだ。この政策は30年間、有効に働いている」
「ええ。しかし、あなたはこれらの科学的な贈り物を、言語道断な宗教まがいの儀式で包まねばならなかった。あなたは、それで擬似宗教を、茶番劇を、作り上げた。あなたは僧侶の階級制度と、複雑で無意味な儀式を作りあげた」
ハーディンは眉をひそめた。「何をいっているんだ? 今までの議論とそれとどんな関係がある。たしかに最初はそういうやり方をした。野蛮人たちがわれわれの科学を一種の魔法と見なしたからだ。そして、そういうベースで受け入れることがかれらにとって容易であったからだ。司祭制度は自然発生的に出てきたものだ。たとえ、われわれがその発達を手助けしたとしても、それはもっとも抵抗の少ない道をたどったというだけのことにすぎない。取るに足りないことだ」
「しかし、そういう司祭どもが原子力発電所の権限を握っているではありませんか。これは取るに足りないことではありません」
「そうだな。しかし、われわれがかれらを教育したのだよ。その設備にたいするかれらの知識は、経験的なものだ。そして、自分らを取り囲む狂言役者に、かれらは絶大な信頼を寄せている」
アイザック・アシモフ(著)/岡部宏之(訳)『ファウンデーション――銀河帝国興亡史〈1〉』(早川書房、1984年), pp. 142-143.
ハーディンはかれを見上げて、にやりとした。「葉巻を取りたまえ! 旅はどうだった?」
ヴェリソフは自分で葉巻を取った。「おもしろかったです。隣のキャビンに、放射性合成物の調製の――ほら癌治療に使うやつです――特別講義に出席するためにこちらにくる司祭が乗っていて――」
「おいおい、そいつは放射性合成物なんて呼びはしなかったろうな?」
「まさか! かれにとっては “聖なる食物” でした」
市長はにっこり笑った。「それからどうした?」
「やっこさん神学的議論にわたしを巻きこみまして。最善を尽して、あさましい唯物論から引き上げてくれました」
「それで、自分の上役の祭司長だとは気づかなかったのか?」
「あの緋の衣を着ていないのにですか? しかも、かれはスミルノ人でした。でも、おもしろい経験でした。科学の宗教ががっちりと急所を摑んでしまっていますよ、ハーディン。・・・(略)・・・」(同上, pp. 149)
「宗教」が着想の源になることもあれば、「偶然」が発見のきっかけになることもあります。“Research by accident” なんて言い回しもあるくらいですから、「偶然」が発見のきっかけになるのはそう珍しいことじゃないのかもしれません。
「偶然」が発見のきっかけになったとしても、単に運がよかったってだけじゃないかもしれません。まったく同じ「偶然」に遭遇しても、場合によっては、あるいは、人によっては、その「偶然」を見過ごしてしまうかもしれません。「偶然」が見過ごされてしまえば、発見にはつながりません。「偶然」を発見のきっかけにする――「偶然」を発見につなげる――ためには、運を活かす実力も必要なのかもしれません。
1961年冬のある日のこと、一区切りのデータをもっと念入りに調べたいと思ったローレンツは、近道をすることにした。時間を節約するため始めの部分をはしょって、中途から処理を始めることにしたのである。・・・(略)・・・コンピュータの騒音を逃れてコーヒーをのむため廊下に出た。小一時間ほどして部屋に戻った彼は、まったく思いがけないもの、まさに新しい科学の種がそこに播かれているのを見たのである。
さっきローレンツが自分で数字の一字一字をそっくりそのままコンピュータに打ちこみ、別にプログラムを変えたわけではないのだから、この結果も前のと全く同じになるはずだった。ところが今、新しいプリントアウトを見つめるローレンツの眼前にくり拡げられていたのは、たった数ヶ月分の天候のパターンなのに、それが以前のものとは似ても似つかぬものになるほどの速度でずれて行くさまだった。
・・・(中略)・・・
だが次の瞬間、彼ははっと本当のことに気がついた。機械が狂ったのではなく、実は彼が打ちこんだ数字の方に問題があったのだ。コンピュータのメモリーの中には .506127 という6桁の数字が記憶されていたが、紙面を倹約するためプリントアウトには .506 の3桁しか印刷されない。だが1000分の1ぐらいなら大した誤差ではないと思ったローレンツは、四捨五入して短くしたその3桁の数字をそのまま打ちこんだのだ。
・・・(中略)・・・
つまりある特定の出発点から出発した天候は、毎回必らず全く同じパターンをとって展開する。その出発点をちょっと変えれば、その結果の天候もやはりちょっと変ったかたちで展開するはずだ。数字の上の僅かな誤差などというものはほんのそよ風のようなもので、天候全体に重大な影響を及ぼしたりするまえに、いつの間にかひとりでに消えてしまうか、さまなくば互いに打ち消し合ってなくなってしまうにちがいない。ところがローレンツのその方程式の系では、僅かな誤差が「大異変」を招くことになったのである。
・・・(中略)・・・
しかしこんな違いなどお粗末なコンピュータのぶれのせいだとして片付けられないことはなかったし、機械自体、あるいは彼の作ったモデルそのものにどこか悪いところがあるのかもしれないと思うこともできただろう。第一ナトリウムと塩素を混ぜたら金が出てきたなんぞという大事件ではなし、そのまま放っておくべきだったのかもしれなかった。だがこのときローレンツは、鋭い数学的直観――彼のこの直観の力を同僚たちが理解しはじめたのはずっとあとのことだが――によって、これはおかしい、根本的な考え方に狂ったところがあるのではないかと気がつき、はっとしたのだった。
J・グリック(著)/大貫昌子(訳)『カオス――新しい科学をつくる』(新潮文庫、1991年), pp. 33-36.
科学と宗教というと、水と油のような関係にあるかのように思われていますが、宗教が科学にインスピレーション(着想)を与えることもあるのですね。科学が宗教にインスピレーションを与えた例も探せば出てくるかもしれません。
直線運動という固定概念がなかったファラデーは、聖書に着想の源を求めることができた。彼が属していた<サンデマン派>は、直線とは異なる幾何学図形、すなわち円を重んじていた。人間は神聖な存在であり、聖なる自然の摂理に基づいて、各自が他者に対する責任を担っているというのが彼らの考えだった。誰かに手を差し伸ばせば、その人はまた別の人に手を差し伸ばし、そしてその人がまた次の人に手を差し伸ばす。そうして最後には円が完成するというわけだ。
・・・(中略)・・・
1821年夏の終わり、ファラデーは電気と磁気の関連性について研究しはじめた。・・・(略)・・・ファラデーはまっすぐ立てた1本の棒磁石を用意した。彼は自分の奉ずる宗教に影響され、目に見えない円環状の渦が磁石をめぐっていると考えた。その推測が正しければ、だらりと垂らされた導線はそれに引きよせられ、小舟が渦に巻きこまれるように神秘の円に捕らえられるはずだ。彼は電池を接続した。
その直後、ファラデーは電磁気回転という世紀の発見をなした。
デイヴィッド・ボダニス(著)/伊藤 文英・高橋 知子・吉田 三知世(訳)『E=mc²――世界一有名な方程式の「伝記」』(早川書房、2010年), pp. 31-32.
カオス本をちびちびと読んでいる最中なのですが、「ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こる」だけじゃなく、「釘が抜ければ、国が亡びる」こともあるらしいです。
知らず知らずのうちに世の中に害悪を垂れ流さないためにも、家の中に引きこもっておいた方がよさそうです。
「ある理論家が学生を前にしてよく言ったように、『西欧の科学の基礎をなす考えとは、たとえば諸君が地球上で球突台上の球の運動を説明しようとしているとき、ほかの銀河系のある惑星上で木の葉が1枚舞い落ちたなどということまで、考えに入れる必要はないということだ。つまり非常に微小な影響は無視してもかまわない。ものの働きには【収束現象】というものがあって、或る小さな影響があるからといって、それがふくれあがって多大な影響を及ぼすことにはならない』のである。」( J・グリック(著)/大貫昌子(訳)『カオス――新しい科学をつくる』, pp. 31)
「・・・(略)・・・バタフライ効果は、『初期値に対する鋭敏な依存性』という専門的な名前をもらうことになったが、この性質はまったくの新しい概念ではなく、その証拠に次のような古い民謡などの中に顔を出している。
釘が抜ければ蹄鉄が落ちる
蹄鉄なしでは馬には乗れず
馬がなければ騎兵は征かず
騎兵隊なしでは戦にゃ負ける
負けりゃお国も何もない
科学の場合も人生と同様、一連のできごとの中に小さな変化を大きく拡大するような危機的な点のあることは、よく知られている。カオス(混沌)はそのような危険をはらむ点がその辺にいくらでもあるということを意味するのである。」(同上, pp. 45-46)
それまでの意見を変えると、定見を持たない日和見主義者のように見なされたりします。転向だとか、前言撤回だとかっていう言葉にマイナスのイメージが付きまとうのも、「意見を変えるのは悪いこと」っていう暗黙の了解があるからのような気がします。
ところで、意見を変えるのってそんなに悪いことなんでしょうか? 周りに流されて意見を変えるのはどうかと思いますが、それなりの根拠があって意見を変えるのは別に悪くないんじゃないでしょうか? 持論を曲げることのハードルの高さを考えると、むしろ称えられるべきなんじゃないでしょうか?
「情報が変われば、結論を変えるというのが私の流儀だ。貴方は?」(by ジョン・メイナード・ケインズ)
無知ゆえに無垢・・・なのかどうかはわかりませんが、「イノセント」には、無垢という意味以外にも、無知という意味もあります。
年を重ねるにつれて――大人になるにつれて――無垢でなくなってしまうのは、少しずつ賢さ(ずる賢さも含めて)を身に付けていってしまうからかもしれませんね。
無垢な世界(あるいは、無垢な時期)に惹かれてしまうのは、長続きしないがゆえ、いつかは失われるがゆえ、儚いがゆえ、稀少であるがゆえなのかもしれません。
僕は彼女のために真珠の柄のついたナイフとラジオと、チョコレートをかぶせたチェリー(僕らは一度それをちょっとだけ味見したことがあるが、それ以来彼女は真剣な顔で僕にこう言うのだった、「ねえバディー、私はあれなら毎日ごはんがわりに食べられるよ。神様に誓って本当だよ。私は神様の名を故もなく口にしたりはしないからね」と)をたっぷり1ポンド買ってあげたいと思う。でもそのかわりに、彼女のために凧を作る。彼女は僕に自転車を買ってやりたいと思っている(機会があるごとに何百万回となくそう口にした。「もし私にそれが買えたならね、バディー。欲しいものがあるのにそれが手に入らないというのはまったくつらいことだよ。でもそれ以上に私がたまらないのはね、誰かにあげたいと思っているものをあげられないことだよ。でもそのうちにちゃんとあげるよ、バディー。お前のために自転車を手に入れてやるよ。どうやってなんて聞かないでおくれよ。盗みでもしようかねえ」)。でもそのかわりに彼女は僕のために凧を作ってくれているのだろう。僕はそう見当をつけている。
トルーマン・カポーティ(著)/村上春樹(訳)「クリスマスの思い出」(『ティファニーで朝食を』に収録, pp. 255-256)
「劇的な勝利」とか、「劇的な差」とかいう言い回しがされます。「劇的ビフォーアフター」なんていうテレビ番組もあります。
ところで、よくよく考えてみると、「劇的」というのは、「劇のような」という意味なのですね。「劇を見ているように緊張や感動をおぼえるさま」という意味が込められているのですね。「劇のような」ということから派生して、甚(はなは)だしさを表現する語として使われるようになったわけですね。
日常生活で「劇的」という表現を使うときは、「すごい」と同じような感覚で使ってしまっていますが、福田恆存(著)『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫、1960年)を読んで(というか、タイトルを見て)、「劇的」というのは、本来は「劇のような」という意味なのだということに気付かされたのでした。
「自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。ただそれを意識していないだけだ。」(pp. 15)
「また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する――ほしいのは、そういう実感だ。」(pp. 17)
「・・・(略)・・・ほら、いやったらしいアカに心が染まるときってあるじゃない」「それはブルーになるみたいなことなのかな?」「それとは違う」と彼女はゆっくりとした声で言った。「ブルーっていうのはね、太っちゃったときとか、雨がいつまでも降り止まないみたいなときにやってくるものよ。哀しい気持ちになる、ただそれだけ。でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。怖くってしかたなくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかはわからない。あなた、そういう思いをしたことある?」「何度もあるよ。そういうのをアングスト(不安感)と呼ぶ人もいる」「わかったわ。アングストね。なんでもいいけど、そういうときあなたはどんなことをするの?」トルーマン・カポーティ(著)/村上春樹(訳)『ティファニーで朝食を』(新潮文庫、2008年), pp. 64-65.
「ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こる」と言えば、バタフライ効果。バタフライ効果と言えば、カオス。
というわけで、ずいぶん前から家の本棚に鎮座している J・グリック(著)/大貫昌子(訳)『カオス』(新潮文庫、1991年)という本を読み始めることにしました(ところで、一体誰がこの本を買ったのでしょう? 少なくとも、僕は買った記憶がありません。親が買ったか、誰かから貰ったのかもしれません) 。
どうやら、マンデルブロ集合がフラクタクルで、ストレンジ・アトラクタらしいです。ふむふむという感じです。
まだ読み始めたばかりで生煮えの理解でしかありませんが、最後まで読み終えたら世界観が一変するような予感がします。
昨日は、天気予報を外したら裁判にかけてもいいんじゃないかという暴論を吐いてすぐに引っ込めたわけですが、新型コロナの影響で天気予報の精度が下がっているらしいです。
「新型コロナの影響で飛行機の発着が減っていて、その波及効果の一つとして天気予報の精度が下がっているらしい」のです。「天気予報の精度を高める一翼を担っているのが、商用航空機が飛行中に入手する気象情報である。しかしながら、新型コロナの流行を受けて世界中でロックダウン(都市閉鎖)が断行される中(2020年3月~5月)、商用航空機の発着が減っており、それに伴って、商用航空機経由で得られる気象情報がこれまでよりも50~75%近く減っている。・・・(略)・・・新型コロナの流行によって、遠隔地(例:グリーンランド、シベリア、南極大陸、サハラ砂漠)や航空機の往来が盛んな地域(例:北アメリカ、中国の南東部、オーストラリア)の天気予報の精度がかなり下がっている」とのことですが、日本はどうなんでしょうね?
風が吹けば桶屋が儲かるらしいですし、ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こるらしいです。何がどうつながっているか、わかったもんじゃありませんね。
僕の一挙手一投足が、誰かの命を救ったり、誰かの命を奪ったりしているかもしれません。慎重な行動を心掛けたいものですね。
天気予報だと、今日は雨が降る(それも、大雨になる)かもしれないという話だったのに、(午前は曇りがちだったものの)午後に入ってすっかり晴れました。大外れといっていいと思います。
職業によらず、予測を外したら裁判にかけるというのもありかもしれません。
いや、何だか野蛮な感じがするので、やめておいた方がいいかもしれません。別の手を考えた方がよさそうです。
高校時代に現国(現代文)を担当していた先生に、「すごい」という形容詞を極力使うなと言われました。「すごい」ばっかり使ってると、語彙力が乏しい残念な大人になるぞというのです。
刷り込みというやつでしょうか。今でも「すごい」を使うのに、抵抗を覚えてしまいます。でも、「すごい」を避けてきたおかげで、語彙力が豊富になったかというと、よくわかりません。
あ、そうでした。僕は、中学生という設定なのでした。まだ高校生にはなってないはずです。だから、あの先生にもまだ出会ってないはずです。
というわけで、少なくとも高校生になってあの先生に出会うまでは、「すごい」を心置きなく連発していきたいと思います。
「もうずいぶんむかしのことになりますが、大正13年の秋、私が東北大学に赴任した当時ヘリゲルというドイツ人の哲学者がいたのです。・・・(略)・・・広瀬川を渡って向山の草の多い坂道を登っていたときに、急にそのヘリゲル先生が私に対して、お前は経済学をやっているそうだが、経済学というのは...