2022年6月22日水曜日

劇的

「劇的な勝利」とか、「劇的な差」とかいう言い回しがされます。「劇的ビフォーアフター」なんていうテレビ番組もあります。

ところで、よくよく考えてみると、「劇的」というのは、「劇のような」という意味なのですね。「劇を見ているように緊張や感動をおぼえるさま」という意味が込められているのですね。「劇のような」ということから派生して、甚(はなは)だしさを表現する語として使われるようになったわけですね。

日常生活で「劇的」という表現を使うときは、「すごい」と同じような感覚で使ってしまっていますが、福田恆存(著)『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫、1960年)を読んで(というか、タイトルを見て)、「劇的」というのは、本来は「劇のような」という意味なのだということに気付かされたのでした。

「自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。ただそれを意識していないだけだ。」(pp. 15)

「また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する――ほしいのは、そういう実感だ。」(pp. 17)

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